合理化を突き詰めるより寛容さを身につけたほうが生きやすくなる

合理化を突き詰めるより寛容さを身につけたほうが生きやすくなる

合理主義者の べっちー です。

しかしですね、私のように合理主義をこじらせすぎると生きにくくなりますよ。

周りの人に合わせにくくなりますから。

周りの人のやり方と自分のやり方が合わないことがわかるとイライラしだしますからね。

だから周りの人が自分に合わせてくれよ! と思ってしまいます。本音ではね。

でもそんなことを表には出すのは控えています。空気が読めないヤツと思われるのはイヤですからね。だからあくまで本音のレベルです。

だから自分を周りに合わるように努力します。本音と建前を使い分けているんです。

だからもしイライラしていてもそれを表に出さないほうが自分のためです。

そうなると合理主義をこじらせないほうが身のためなのかもしれません。

いや、合理性うんぬんの前に、合理性以外のことを追求していくと良いのかもしれません。

合理性を追求するのは良いものの、それを追求しすぎて生きづらくなるのは本末転倒です。

そこで今回は合理性を追求しつつも、これよりもより大切な「寛容さ」についてのお話をしていきたいと思います。

前時代的なやり方に合理性を見いだせない

前時代的なやり方

先日ある人から別のある人にあるもの送ってくれという依頼がありました。

依頼というか指示ですね。どっちでもいいんですけど。

そのあるものとは住宅地図を印刷した紙でした。「紙の地図を送ってくれ」という指示でした。

私は思ってしまいました。いまどき紙に書かれた地図を郵送で送るってどんだけ前時代的なんだよってね。

地図なんて地図サイトのリンクをペタって貼り付けてメールすればすぐに送れるのにねって。

もうね、私は合理主義をこじらせているから無駄なことはなるべくしたくないんですよね。

そうすれば作業はすぐに終わるんだし。

封筒に名前を書く必要もないし、封筒に切手を貼る必要もないし、地図の紙を入れた封筒をポストまで投函しに行く必要もないですからね。

とはいえ、相手の方は、そして私に指示をしてきた人はどちらもメールを使えないんです。

だからメールで地図にある目的地を教えようという発想もできないんです。

地図を送る方法が前時代的なのと同じように、これを指示してきた人も前時代的なのでした。

このような前時代的なやり方に私は到底合理性を見いだせないのです。

古来からのしきたりやルールに合理性を見いだせない

それと日本古来のしきたりなどのルールがキライです。キライと言うと語弊がありますが。

たとえば大安とか仏滅などの六曜。

冠婚葬祭に関連することのたびに六曜を意識しなければならないことがあります。結婚式などのお祝い事は仏滅はダメだとか、葬式は友引はダメだとかのアレです。

でも大安や仏滅だからといって過去に何かがありましたか?

これこそ、必要以上に意識する人がいるからその人たちのために合わせないといけない、いわゆる同調圧力以外のなにものでもないと思うんですよね。

これと同じような理由で “半返し” の文化もキライです。贈り物はしますが半返しなんてしてもらわなくても結構ですから自分も半返しなんて本当はしたくなんてありません。

半返しなんてないほうがお互いに気持ちが良いでしょ?

※ちなみにこれらをぜひ意識したいとおっしゃる方には歴史的なことだとか意義的なことなどの言い分がおありのことでしょうが、ここではこれらのことに言及はしませんのでご了承くださいませ。

合理主義をこじらせると他人との軋轢を生む

ホリエモンこと堀江貴文さんは「本音で生きろ」とおっしゃっています。

私も彼の考えに共感します。ホリエモンもかなりの合理主義者ですからね、だから共感できるのかも。

でもホリエモンみたいに名の通った人でないのなら、「本音で生きる」のと「本音を語る」のは使い分けたほうがいいのかもしれません。

本音で語ることは他人との軋轢を生むことになりかねないからです。

もちろん自分の意見と合う人となら大いに語り合うのもよいかと思います。

でも自分とは意見の合う人ってとても少ないですからね。

とくに私のように合理主義をこじらせているような人と意見が合う人はホントに少ない(笑

こじらせているならば、自分の意見がちょっと変わってるな、これを他の人に向かって言うと軋轢を生みそうだなと思うとお口を閉じておくのが無難です。

だからこじらせているのに他人にああでもないこうでもないと言う人が苦手です。自分が一番正しいと思っている独善的なタイプの人ですね。

「自分だけの意見だけどね」と前置きをするなりして、その意見がちょっと変わっていることを意識した上でお話をしてくれるとありがたいんですけどね。こういう方はだいたいにおいて紳士的で話もしやすいです。

でも自分の意見を押し付けてくる人ってイヤですね。なぜその意見が普遍的なものかどうかを自分で考えずに自信満々に他人に向かって言えるのだろうかと疑問に思います。こういう人はまったく紳士的でないですね。

だからこういう方とはまともな話をしないのが無難ですね。だって何かを言うと確実に反論と受け止められますから。

べっちー

反論だと受け取られるような言い方をするから良くないんだよ。

合理性も大切だがもっと大切なのは寛容さだ

ここまでで自分なりにわかったことは、合理性を追求するのは構わないのだと思います。

他人に迷惑が及ばないのなら。

もしくは他人から煙たがられるようなことをしたり言ったりしなければ。

しかしもっとわかったことは、合理性よりも大切なのは「寛容さ」だということです。

広い心を持つことです。海みたいに広い心を。

メールやネットを使えない人に寛容になること、古来からのしきたりやルールに寛容になること、他人に平気で独善的なことを言う人に対しても寛容になること・・・が大切なんです。

べっちー

やっとわかったのか。このボンクラめ。

ここで気をつけたいのは寛容になることはガマンすることではないってことです。

生まればかりの赤ちゃんをあたたかい目で見守るときの気持ちがもっとも寛容さが発揮されている場面ですので、この感覚を誰に対しても持ってみるのが良いかと思います。

つまり、他人に期待しすぎるからイライラしてストレスが溜まるんですよね。

それだと精神が病んでしまうことになりかねないから、自分のためにも寛容になることが大切なんです。

それと、誰もがみんなすべてのことを合理的に進められるとしたら、いろいろな職業が必要でなくなってしまいますから。

この世の中から無駄をなくしてしまうと経済がきっと回らなくなりますからね。

こうして私は自分自身には合理性を求めて、そして他人には寛容になろうと心に決めたのでした。

終わりに

今回はとどのつまり、合理性を追求するだけでなく、寛容さを身につけようということをお話してまいりました。

まともな大人だったら当然のこと身につけておかなければならない寛容さですが、私は40歳を過ぎてもなおこの寛容さが見についていないこともわかりました(笑

べっちー

笑えなーい。

合理性だけではなく、寛容さを身につけることができるときっと世の中をもっと上手に渡っていけると思いますよ。

寛容さを身につけても合理性が失われるわけではありませんからね。合理性を追求しつつも、寛容さを高めていくのが理想かなと思います。

っていうかそれが最強かも。

あなたももし心当たりがあるならば、どうぞ寛容さを身につけてみて世の中をうまく渡り歩いてくださいね♪

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